あいまい工場製造日誌

あんまり調べずに書く、よくある感じの日記です。

ダメさ

ここ数年はNoltyの能率手帳小型版を使っていたのだが正直ちょっと飽きている。目先が変わるものはないかしらと思っていたところ、同じくNoltyから今年出たらしいライツメモ小型版(商品番号1181)が良さそうだったので追加で買ってみた。

大きさは能率手帳小型版と変わらずで、見開き1週間のところまでは同じ。ライツメモは日付のあるスペースがマンスリーのブロックサイズ程度にまとめられページ上部に寄せられている。その下にできた余白は、2Pにわたるフリーメモに。

手帳の何が辛いかといえば「何も書かないページが続いていくことで自分のダメさを常に自覚せざるを得なくなること」だ。

ほぼ日なら1日1P、見開き1週間なら2Pで7日間を分割して埋めていくが、埋められない日が続いてしまうことも間々ある。空白の枠が続くと焦りを覚え、またその手帳の存在がどんどん不完全なものに感じ、手元に置くことが罪に感じる。その問題をライツメモ小型版は「1週間に1度書き込めば2ページ全体を有効に使った形になる」というやり方で回避しようとしている。ストレスは仕組みで避ければ良い。

なお、ほんとうに何も書く気が起きないときは、「今日はうんこがめっちゃ出た」みたいなことを書いている。仕組みすら活かせないときに自分を助けるのはどうでもいいことだ、というのが今のところの実感である。

去る

J 1リーグ最終節を現地で見る。ぼくは横浜F・マリノスを贔屓にしているのですが、かれこれ5年くらい新横浜は日産スタジアムにせっせと通い、オフシーズンは移籍情報に胸を痛め、学生からプロになった選手の成長に目を細めているうちに所属する選手の人生に寄り添っているような気分になり、サッカー競技を見る楽しみに加え、毎週90分間開くことのできる小説を読み続けているような気持ちがある。今年もいろいろなことがあったし、この冬にも起きるのだろうな。「フロントも選手もいつか去る。だがサポーターだけは常にチームと共にある」という言葉があると聞いた。実感として非常にわかる言葉だなと思う。

寝袋

冬キャンプに行ってみたいが未だ経験がなくどの程度の防寒対策が必要なのかわからない。最悪死ぬ、と聞いており「とりあえず行ってみよう」と決意するにはハードルが高い。というわけでまずは実家の庭にテントを張り寝てみたら少しは経験値が得られるのではないかと考え一路群馬へ。夕方、さっそくテント設営だと必要な荷物を車から下ろすと寝袋がない。結果、野営用にそろえた食材を台所で鉄板焼きにし、石狩鍋を食べ、ビールを飲んで漫画を読んだのち風呂に入り屋根の下、暖かい布団で寝た。

それぞれのご当地戦国武将

YouTubeで『信長の野望』のプレイ動画を見ている。高校時代に日本史を選択せず、地元群馬はあまり武将がもてはやされる土地柄でもなく、また大河ドラマも多くは見てこなかったのでぼくは武将に疎いのだが、ああ新潟のあたりは上杉謙信の勢力下だったのね、とか、北条家にとって小田原城は大切だったんだなあなどとぼんやり考えながら見ている。そういえば岐阜駅前には金ぴかの信長像があったなあと思い出し、同僚と昼食を食べながら「地元で愛されてる武将とかっていました?」と話題にしてみたところ、ややあって「石田三成」との回答。ぼくも知ってる有名武将!うらやましい!一方でそんな有名武将をなぜか昼食時に紹介する羽目になった滋賀県出身である先輩の口調は少し誇らしそうでもあり、これはもしかして社会で働く妙齢の御仁はみな心の中にそれぞれのご当地戦国武将をそっと温めているのではないだろうか?とのあらぬ疑いがぼくの中で大きくなっていくのを感じたのだった。

羞恥

チョン・スチャン 著、斎藤真理子 訳『羞恥』を読む。「脱北者」が韓国社会で生活していく現実を描いたと言われている小説だ。

戦争や歴史、政治、経済といった個人を飲み込んでいく大きなうねりの上澄みを無意識に利用し溜飲を下げようとしてしまう恥知らずな人間たちによる物質主義社会の中で、経験してしまったこと、背負わなくても良かったはずの罪の意識、そこから生まれた忘れ得ぬ羞恥心を見つめ、その向こう側に見える不確かだがその瞬間は確かに存在している「生」を意識せざるを得ない人たちの話だった。

社会問題を扱いながらもその引力に負けぬ存在感のある人物像を描き切り、その上で、傷ついた人が抱えるどうしようもない寂しさに寄り添うような普遍的な物語として完成させていて骨太。かなりよかったです。

21時

六本木ヒルズ森美術館15周年記念展『カタストロフと美術のちから展』へ。森美術館は21時閉館なので平日でも行けるチャンスがあってわりと行きがち。

カテジナ・シェダー《どうでもいいことだ》は仕事を辞めて無気力になってしまった母親が長年勤めた金物屋の商品を詳細に覚えていることに気づき、それらをドローイングしてみることを提案。その様子を記録したプロジェクト。自分の世界を「どうでもいいこと」として扱うのはさみしい。記憶という自分の内面をアウトプットする中で世界との関わり方を再発見していくプロセスが優しくて、好みの表現でした。

本展のサブタイトルは「先行き不透明な混沌とした時代に、アートだからできること」。できること、役に立つこと、みたいな話はあまりしたくないけれど、どうにかやっていくための手段としてアートもある、という選択肢がゆるく認識されている世界は悪くないのかもしれないなー。

『植物たちの救世主』を

カルロス・マグダレナ(翻訳:三枝小夜子)『植物たちの救世主』を読む。世界最大級の英国国立植物園キュー・ガーデンで植物の繁殖に携わる著者のエッセイ。植物への情熱が感じられる語り口はノーベル物理学賞受賞者であるリチャード・P・ファインマンのエッセイ『ご冗談でしょう、ファインマンさん』を彷彿とさせるくだけた部分もありながら、植物のラテン語表記を必ず入れるなど読者に対する誠実さが現れていて好感。バーテンダーからスタートしたキャリアもユニークだ。

現時点で利用価値が見出せない植物だからといって根絶させてよいはずがないし、理解できないからこそ、その存在を保全していくべきだという著者の姿勢に強い共感を覚えた。こういう気概でないと何かを救うことなんて出来ないだろうな、と思う。