「日記ブーム」だ。ぼくも恩恵にあやかって、月と文社から出版される『何も起きない夜日記』に『日記で遅くなりたい』というエッセイを書いた。noteやしずかなインターネットのリンクをSNSで見かけることも増えた。それらをZINEにまとめる人も多く、文学フリマやZINEフェスの話題がよく聞こえてくる。出版社も文芸誌で日記特集を組み、果ては日記に特化した文芸誌すら出版されている。けれど、これをそのまま「日記を書く人が増えた」と言っていいのだろうか。違和感がある。
何かを書きたい人は、たぶんいつの時代にもいた。手打ちのホームページでも、鍵付きの日記帳も、さかのぼれば更級日記だってそうだ。違いがあるとすれば、「日記」という形式へのアクセスが極端に簡単になり、しかもそれが評価の言葉と結びついて可視化される、という点ではないかと思う。
いつの頃からだろう、noteを眺めていると「わたしの〇〇な経験を綴ることで、誰かに寄り添えたら」といった自己紹介に出会うことが増えた。そのテキストは「役に立ちたい自分」を隠さない。書く前から「意味」や「届け先」が想定されている。でも、テキストのすべてがそんなに役立つ必要なんてあるんだろうか。書きたい人は多いが、読みたい人はそれほど多くない、という体感が、少し腑に落ちた。
ぼくが知る日記文化にかつてあった感触を思い出すと、そこにはもう少し違う空気があった。日記は基本的に書き手のために書かれており、それを「そっとインターネットにおいておく」。あて先が読めないまま投函された手紙のように、偶然誰かに届くかもしれないし、あるいは誰にも届かないかもしれない。この「誤配の気配」に、個人の日記の魅力があった。
いま、出版界隈では「日記の再評価」が盛んに語られている。「日記」は役に立たなくていい、意味を回収できなくていい、という言葉も目にする。その姿勢は誠実だ。少し冷静に眺めよう。その評価は、日記の何を対象としているんだろうか。ぼくにとってはそこに、どうしても受け取りづらいトゲがある。もちろん、出版界隈が「日記」を可視化して、息がしやすくなった人もいるだろう。ただ、その救いが「読まれる形への最適化」とセットなら、別の損失も生んでしまうんじゃないか。
と言うのも、出版という制度側から俯瞰したとき、評価され、流通し、売られるのは結局のところ、日記という営みそのものではなく、日記っぽく編まれたものだからだ。
「日記っぽさ」は、「日記の倫理」ではなく外観だ。本当に個人が、自分のためだけに書いている日記はそもそも読めないし、売れない。もし売れるとしたら、それは書き手の存在自体が既に評価を得ているか、あるいは相当の技量を持って、私的な記録を作品として調律できた場合に限られる。出版界隈が結果的に行なってしまっているのは「日記が価値を持つ」と宣言することではなくて、「読まれるべき日記っぽさ」を再定義し、選別することではないか。
この矛盾は、ぼくを含めた「書きたい・発信したい・意味を持ちたい個人」にとってはかなり厄介だ。日記が評価されている、というメッセージだけが切り出されることで「日記っぽいものを書けばいいのか」というミスリードが生じる。その結果、日記は実践ではなくなり、ジャンルになる。営みではなく、様式になっていく。皮肉なことに、このプロセスは、日記を「役に立たなくていいもの」として救い出そうとする意思とは真逆に作用しているようにも見える。評価される日記が可視化されるほど、日記は「評価されうる形式」として「意味」が先に定義されてしまう。
もしかして、いま言われている「日記ブーム」とは、日記の再評価というよりも、「日記っぽさが洗練・制度化されていく過程」なのかもしれない。
本当に個人的な日記は、相変わらず見えないところで書かれている。形式に回収されない日記も、インターネットの片隅に残り続けている。それは「日記っぽさ」としては評価されないし、売れないし、多分話題になるものとは違う形をしている。ぼくは、そんな日記が読みたい。ぼくが知る、かつてインターネットにあった日記文化の核心は、むしろそちら側になかったか。評価と誤配。その間で、どこまでが「日記」でいられるんだろうか。