気分は日記

あんまり調べずに書く、よくある感じの日記です。

簡単日記(20250112)

国立歴史民俗博物館へ。前回は時間がなくて常設展示はほぼ流し見、それでも第3展示室『近世』にたどり着くのがやっとで、第4展示室には足を踏み入れることも出来なかった。今回は入館前から常設展示しか見ないと決めていた。これなら余裕があるだろう、と思っていたら、また第3展示室『近世』で閉館時間となった。タイムループものか。永遠に近・現代にはたどり着けないのかもしれない。何かしらのルールを基盤にした「『国』としてのガバナンス」みたいなものが、いまの興味と近くておもしろく見た。「王を王たらしめたのは何か」との問いに「儀礼の執行である」と答えており、なんというかそういうものとして人間はずっとやってきているのだと感心してしまう。神でも律令制でも自然災害でも、あるいは近所に住む力の強い人間の暴力によるものだとしても、そういうものだ、との仕組みが作れれば、そういうものだからそうなのだ、と信じて動けてしまうというか。一方で、名称に『民俗』とあえて入れている点が気になっていたが、風俗や民間の習俗などの展示も多く、『歴史』は編纂されるものだけにあらず、その時々の事実として人間の生活が確かに在るのだと、改めて意識させられる。

簡単日記(20250106)

映画『ミラージュ』(Mirageman)を見る。チリを舞台にしたお手製スーパーヒーローもの。全編インディーズ感のある、映画愛を感じられる作りでとてもよかった。兄弟は幼いころに両親を殺され、弟はショックで心を閉ざし入院生活。兄は医療費と生活費を稼ぐためトレーニングを続けながらクラブの用心棒をしていたが、ジョギング中にたまたま強盗団の犯行を目撃し、とっさに撃退。その際、強盗のマスクを奪い顔を隠していたことからテレビで謎のヒーローとして報道される。そのニュースが弟を励まし前向きにした様子を見た兄は、弟のために“ミラージュマン”を名乗り悪事と戦うことにしたのだが…。主演のマルコ・サロールはとにかく喋らない。その不器用さに哀愁があって、手作りのヒーローコスチュームをまとい戦う姿にぐっとくるのだった。アクションシーンはマルコ・サロールの足技中心にしっかり見せてくれて、思いのほか質実剛健。低予算映画の良いところがそこかしこにあふれていて、かなり好みでした。

簡単日記(20250105)

東京駅へ。三菱一号美術館「『不在』―トゥールーズロートレックとソフィ・カル」、アーティゾン美術館「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×毛利悠子—ピュシスについて」をはしご。

ロートレック1893年アメリカのダンサーを描いた《ロイ・フラー嬢》。モデルとなったロイ・フラーコンテンポラリーダンスの先駆者と言われている女性だった。舞台上の一瞬を切り取り、その瞬間のみを描くこの作品は、物語を大衆に想起させる機構そのものであるポスターで名声を得たロートレックがストーリーのくびきから解き放たれる転換期の象徴として紹介される。ソフィ・カル作品では《グラン・ブーケ》に強い印象を受けた。ルドンによる2メートル半の巨大な壁画《グラン・ブーケ》が三菱一号美術館を代表する収蔵品であるにも関わらず、パステル画の性質ゆえに展示期間が限られており、通常は展示されるべき壁の向こう側に仕舞われている。この「不在」に刺激を受けたソフィ・カルが同館の学芸員等に同作品についてインタビューし、「そこにないもの」のまま、印象や想いをテキストとして収集した。今回の企画展に合わせて公開されたルドンの《グラン・ブーケ》が持つ物理的な迫力と色彩の華やかさに、ソフィ・カルの《グラン・ブーケ》が帯びる孤独とその中でも紡がれるコミュニケーションの確かなアウトラインが相まって、解像度の高い空間だった。

毛利悠子はアーティゾン美術館の広いフロアをぶち抜きで使い、さまざまな仕掛けを配置する。果実が腐る過程で生まれた電流に反応するシンセサイザー、波の音に呼応して改めて叩き直されるピアノ、重力に揺れるフォークとなすすべ無く撃たれるガラス食器、暗闇の中で軋む鉄琴と音に合わせてか細く光る電球。今の身体が世界を知覚するための入り口となり得る小さなノイズの群れだった。

アーティゾン美術館の常設展でワシリー・カンディンスキーの風景画を見る。かわいいね。

2024年(映画)

細切れの隙間時間を繋ぎ合わせるようにスマホで映画を見て、こんな見方していると映画が表現していることの多くを取りこぼしているんだろうと寂しくなり、「しかしながら映画をこんなに手軽に見れるなんてすばらしい時代だ」と開き直る。自室のプロジェクターで過去の名作や近年の話題作を投影し、ホームシアターにあこがれた過去を思い出しつつ、でもやはりもっと映画館に行きたかったとぐずぐず言っている。2024年に見た映画42本の中で、特に印象に残ったのは以下3本。


■『聖なる鹿殺し(The Killing of a Sacred Deer)』

心臓外科医がとある少年を生活に招き入れることで家族を含む彼の状況が狂い始める。ヨルゴス・ランティモス監督は人間が別の人間の圧によってコントロールを失っていく状態を執拗に描き続けている印象があり、本作も同様。「正しい/間違っている」とは別の「その状況における答え」を欲しがってしまう人間の仕組み、みたいなものを思いながら終始おもしろく見た(ただし強いストレスがあり見終わるとぐったりしていた!)。スパゲッティの食べ方も胸糞悪くて最高。


■『ケイコ 目を澄ませて(Small, Slow but Steady)

働きながらボクシングを続けるケイコとその周辺。淡々とした絵とその分前面に出てくる音が印象的。ミットをたたく音、フィットネスマシンの軋み、会話未満のぼそぼそと語られる言葉、手話の衣擦れ。小さな積み重ねが物語の強度を作っていく作品で、その在り方とケイコのキャラクターが重なる。語られ過ぎないが故に観客がシーンから想像を膨らませて見るタイプの映画で、その点もぼくは好みです。


■『フルメタル・ジャケット(Full Metal Jacket)』

1987年制作のベトナム戦争を題材にしたスタンリー・キューブリック監督作品。前半のハートマン軍曹パートで映画のリアリティラインが示され、その世界観が避けがたく含む「フィクションの嘘臭さ」を立脚点にすることで「人間が戦争に行く/人間が戦争をすることの現実感の無さ」が逆説的に生々しく迫ってくる。暴力の描写がエロティック過ぎて、避けたいはずの暴力をシーンとしてしっかり見れてしまうところに映画としての迫力を感じた。

簡単日記(20241228)

『トンネル 闇に鎖された男(터널)』を見る。トンネルの崩落事故に巻き込まれた男と救助隊を巡る話。開始5分でトンネル事故が起きて驚いた。主人公が主に車の中から移動できない舞台設定でお話の展開が持つのかな?と余計な心配をしたが、全然大丈夫。イ・ジョンスやペドゥナ、キム・デギョンなどの演者全員がとにかく巧くて、緊迫感が途切れない2時間だった。もし自分がこんな窮地に陥ったとき、ちゃんと振る舞えるかな?などと思いながら見た。絶望し切らず、他者に対する尊厳を持ち続け、優しく辛抱強くありながら怒るべき時は感情を出せる。普段からやってないと難しいだろうな。崩落事故は当初こそ政治・マスコミから手厚いサポート(とポーズ)が得られたが、徐々に「飽きられていく」感じがいかにもありそうで怖かった。経済合理性の中で人間がすり潰される可能性に映画としてきっちりと唾を吐く姿勢は、韓国映画の良いところのような気がする。

簡単日記(20241227)

Anker『PowerExpand 3-1 USB-Cハブ』を購入。iPad miniのUSB-C端子に接続し、給電しながらHDMI出力ができる製品で、モニターに画面投影が簡単にできるなら嬉しいかもと思って買ったのだった。実際に繋いでみるとかなり気楽で、デスクトップPCやノートパソコンを立ち上げるより手数が少ない。AirPlayも便利だが、物理で機能実現出来るならそれが分かりやすく汎用的で安価な上に速いのだ。

2024年(読んだもの)

今年はずいぶんと本の読めない年だった。それでも読みたい気持ちはあり、比較的読みやすく厚くないものを選んでいた気がする。結果、いま時点で33冊読了でした。来年はもっと読みたいな。というわけで振り返ることで気持ちを高めたく、今年印象に残った3冊を紹介します。


■ ミア・カンキマキ 著、末延弘子 訳『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』(草思社

フィンランド人のミアが1年間の休暇を取り、清少納言の研究を始める様子を描いたエッセイ。書くことが好き、書くこと自体に心の拠り所を感じる人の話でもあり、物理的距離と時空を超えた親近感がある。ミアは40代で、広告代理店の仕事を休み、異国の地に来たは良いものの、その土地の言葉が出来ない。それでも研究してもいいんだ、新しい場所で新しいこと学んで良いんだよな、と妙な力強さがあった。


綿矢りさ 著『パッキパキ北京』(集英社

30代後半の女性を主人公にした小説。夫が単身赴任している北京に乗り込みめちゃくちゃに動き回る菖蒲は、現代中国のパワーと渡り合える女。菖蒲の生き物としての強さが良かった。卑しさや刹那主義の綱渡りに対する自覚も含め、「悪いやつ」の描き方にグルーヴがある。『嫌いなら呼ぶなよ』に続いて好みでした。


■ 木下衆 著『家族はなぜ介護してしまうのか―認知症社会学』(世界思想社

頼れるプロが居ながら、なぜ家族は年老いた人間を自ら介護してしまうのか。介護家族へのインタービューを積み重ねながらその構造を見出していく社会学的アプローチの本。「患者一人ひとりの人生に応じたケア」を目指し介護が行われている現代に至っても、介護家族が高齢者のケアを介護サービスに一任することへ未だに抵抗を感じるのは何が原因なのか。多くの介護家族は被介護者との記憶を有しており、その記憶は被介護者にとっての「代替不可能な人間関係」の主体が自分であると介護家族が認識する根拠となる。著者は「家族が高齢者を介護すべきだとは思わない」と書く。介護家族自身が現代の「意識の高い介護」に構造的に組み込まれていることをまずは自覚するために、この本のアプローチは有効なのでは。