- 作者: 福満しげゆき
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2012/12/27
- メディア: コミック
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あれ、うちの妻ってどうでしょう?新しいやつ出てたのか!
なんとなく福満しげゆきに対しては「描かなくてもよくなったらマンガ描かなくなっちゃうのではないか……」みたいな不安を勝手に感じているので新刊が出るうれしいさが大きく、お得感がある。
あれ、うちの妻ってどうでしょう?新しいやつ出てたのか!
なんとなく福満しげゆきに対しては「描かなくてもよくなったらマンガ描かなくなっちゃうのではないか……」みたいな不安を勝手に感じているので新刊が出るうれしいさが大きく、お得感がある。
通勤中に読み始めた。客観性を保ったまま狂った人の話を聞いてるような、すごいかっこいい文章。
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
木村栄一さんの翻訳好きかもしれない。他になにを訳されてるんだろう。 平行して読んでるナタリーで、主人公がコルタサル読んでるくだりがあって嬉しかった。
大雪を心配したJRが電車の本数を減らしたら通勤がどこも混んでおりみんな大変そうだった。ぼくはポンカンが潰れた。
それにしても〈酸素〉とは何なのか。現在の我々の世界が酸欠状態にあるとして、時間の流れと共に失われた〈酸素〉の正体とは何なのだろう。例えば、それは心だろうか。人間から愛や優しさや思いやりといった心が失われたのだろうか。そうではない、と思う。根拠があるわけではないが、仮に人間の愛や優しさや思いやりの総量を測る機械があったら、その数値自体は今も昔もまったく変化していないように私には思われる。
いや、むしろ今の世界においてこそ、行き場を失った優しい心たちが、世界の至る所に虚しく溢れているのではないだろうか。うまく表現できないのだが、〈酸素〉とは、愛や優しさや思いやりといった人間の心を電波循環させるための何か、のように思われてならない。その何かが豊かに存在した世界では、「幼児の風邪きづかひて戻り来るきさらぎの夕べいまだ明るし」のような歌が自然に成立可能だった。だが、現在の酸欠世界においては、愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている。
短歌をじっと優しく見守ってるような口調に感じた。エッセイとか、自身をむき出しにすることに対する照れがあるような、その結果としての洒落た文章を書く人という印象だったけど、ここまで真摯に語るんだなあ。
人間の生存を支える合目的的な意識こそが、ベンチの上に確かに在るはずの「うめぼしのたね」を、我々の目に映らなくしている、と。すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。(P90)
リアリティを持つ言葉は「生き延びる」ために必ずしも有益であると判断されていない位置に潜んでいる、と解釈。ほむほむのこの辺に対する言及いつもヒリヒリしてて面白いな。
本の感想に繋がっていったので、あっちのブログに書きました。
とりいそぎ、ご連絡日記。 - 「余裕」の話と、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
読んだ本の感想というより自分語りの気恥ずかしい文章になった。
「余裕」の話は最近とても興味があって、例えば自分の好きなアイドルがお泊りしたときにどう受け止めるかとか、(ちょっと古いけど)満員の電車にベビーカーが乗ってきたとか、八百長の取組があると誰かがいまさら指摘したとか、「自分の価値観の外にあるもの」が事故みたいにぶつかってきたときにどうしましょ、という内容。よくわかんないものはもう全部妖怪ってことにすればいいんじゃねーですかね。