気分は日記

あんまり調べずに書く、よくある感じの日記です。

良い

“なぜこれが良いと感じるのか" をうまく掴まえて言語化するのはいつになっても難しくて、そもそも自分はなにを持って好感を覚えているのか、なんの軸に沿って良いと判断するのか、どういった行動や経験が人の心を打つのか、気持ちが動くとはなにか、自分の感情とはどのように認識してどうやってコントロール下においていくのか、感性とは何か?みたいなことは基本的には学び、経験を通じて手触りのあるものとして体系化していくしかないのだなと思うとともに、ショートカットするためには “なにが良いと言われているか" を手段を選ばずに知り整理していくのが有効なのだろう。なのでコンペティションものがぼくは好きだ。

Netflix で『100万ポンドのメニュー(Million Pound Menu)』を見始めた。レストラン出店を目指すフードトラックのオーナーシェフたちが投資家に対して自分たちの看板メニューや事業計画をプレゼンし、資金調達を目指すリアリティ番組。どんなジャンルの料理が市場で美味しいと評価されるのか、投資効果が期待できるメニューは何か、誰とならうまく仕事が出来る予感がするのかを投資家目線で見れるのが楽しい。複数の投資家が出資したいと申し出た場合には、選ばれる側だったシェフたちが今度は主導権を握り選択する立場になるのもスリリングで良い。

競争のための価値観が提示され、その観点に沿って物事が合理的に判断されていく。世界はそんなにシンプルではないが、物事のサイズを知る目安としての定規はいくつ持っていても良いような気が、今のところはしている。

ポケモン

ポケモンの新しいやつをやっている。そもそもポケットモンスターに対しては特段強い思い入れもないのだが、同時代性を感じるビッグタイトルであるしそもそもゲーム全般が好きなので出るとその都度買ってやっている。前作も良かったのだが、今作も“今”の価値観で描かれていて感じが良い。ストーリーがしっかりあって先を知りたくなるし、初めて見るかわいいポケモンがたくさん出てくるのでもっと見たいがために先に進めたくなるし、操作性がいいので画面を動かすこと自体が快感。ゲームは自分が操作をする分、主体的にお話を前に進める必要性が発生し、結果として物語から感じられる手触りがリズミカルで、本や映画ともちょっと違うような気がする。どれもいいなと思う。くさポケモンが好きです。

19号

台風19号が来た。“地球史上最大級の規模”とややボジョレーのような煽り文句に素直に従い大人しく家に篭る。多摩川氾濫に伴い避難指示が出る。「安全な場所」とはどこなんだろうね、避難所である小学校の教室よりもマンションの4階でありキャンプ道具や食材の揃っている自宅のほうが「安全」な気がして残ったが、冠水してしまえば取り残されて安全ではなくなるだろうし。

ダムがいっぱいになってしまうので緊急放流をしてより大きな危険を避ける、というのも仕組みを考えると当然な作りなのだけど、あの緊迫感の中で伝えられるとショックが大きかった。放流した結果下流域では氾濫し人命を脅かすある程度の被害が出てしまうけれど、より大きな危険を避けるためにやむなしという判断をしなければならない事態って身近にあるんだなと思った。「大きな安全」のために「小さな危険」「大きくない犠牲」を選択しなければならないタイミングに立たされたときに、ぼくは判断できるのかな、とか。

「安全」の定義が自分の中になければ即座の判断も難しいのって生きることやっぱりハードル高いなと思った。近所の野良猫は台風の去った今朝、何匹か見かけたので大丈夫だったのかな。心配したぜ。台風が去ってから買いに行こ、と思っていたシングルバーナーで使える鉄板のおまけ付きBE-PALは既に売り切れていた。判断が甘い。

感じのするところ

お久しぶりですこんにちは。このところ何をしていたかと言うとダウントン・アビーテラスハウスにどハマりしてただただ液晶画面を眺める人となっている。どちらも回想やイメージシーンが一切なく、時系列に沿って起きたことがそのまま映し出されていくところが良かった。ダウントン・アビーを見ているときは脚本が良いんだろうなあと関心し、テラハについては人間の判断や行動原理っておもしろいなーと思うのだった。

目に見えていることをそのお話における事実としてひとまず受け止められるというのは、ちょっと癒しではないか、と思った。

ダウントン・アビーは最後まで見てしまったのでイギリス王室貴族っぽいものを見たいゾンビと化した結果、いまはザ・クラウンを見ています。テラスハウスは湘南編、軽沢編を見終えて新・旧東京編を見ているところ。茶割。

本が読めなくなって半年くらい経った。今までも急に読めなくなることはあって、そういうときは大抵映画とか音楽とか、別の好きなものを粛々と摂取しながら暮らしていく。今回はそれがドラマだった。ドラマはNetflixとかAmazonプライムに延々とあって、今もどんどん追加されていて、この時代の感じがわかってかつ目が悪くならないうちに見なければならないコンテンツという気がする。

思った

ニュースばかり見ていると「この深刻なニュースについてちょっと良い感じの独自意見を持ちたいな!」という気持ちになるメカニズムについてこの数ヶ月しみじみと実感できた。最近、やるかーと思い仕事を頑張っているのだが、頑張ると頑張った分だけ時間が限られて行き、ぼんやりとインプットできるのはちょっとした世間話であり朝のラジオから流れるニュースでありTwitterで話題になっている時事問題くらいで、その結果、考えることは俗世のことばかりなりなのだ。ところで、本を読み映画を見て何かを考えることと、ニュースを見て何かを考えることは、矢印が自分に向かっている限りでは基本的には大差がないような気がする。違うのは、事実をトリガーとしながらも何かの文脈に沿って解釈し別の何かを包含しながら多くの人に伝える機能である「ニュース」と、初めから何かを伝えるために取り組まれたフィクションである「小説」と「映画」という在り方だけであり、だからぼくはフィクションに孤独と潔さを感じるのかな、と思う。

2000万円

ぼくはお金自体についてはあまり興味がないのでお金を目的化しなくても良いようにがんばって仕事をする、というフォームがいまのところしっくり来ており、つまりお金の話を暮らし方や誰かとの関係性の要因に出来るだけしたくはないのだ。国が「老後いまの感じより2,000万円貯蓄がないと死ぬよ」といったニュアンスのことを言っている件、社会のあり方とかは別にして、いま受給している世代が「私たちは年金もあまりもらえないのでたいへん」と言っているのを聞きもらえない世代として割と素直に憤ってしまうことがすごく不穏な気がしており、この分断の推進がぼくの内面に何を誘発していくのだろうかと思う。今日はすごく蒸し暑い。