気分は日記

あんまり調べずに書く、よくある感じの日記です。

思った

ニュースばかり見ていると「この深刻なニュースについてちょっと良い感じの独自意見を持ちたいな!」という気持ちになるメカニズムについてこの数ヶ月しみじみと実感できた。最近、やるかーと思い仕事を頑張っているのだが、頑張ると頑張った分だけ時間が限られて行き、ぼんやりとインプットできるのはちょっとした世間話であり朝のラジオから流れるニュースでありTwitterで話題になっている時事問題くらいで、その結果、考えることは俗世のことばかりなりなのだ。ところで、本を読み映画を見て何かを考えることと、ニュースを見て何かを考えることは、矢印が自分に向かっている限りでは基本的には大差がないような気がする。違うのは、事実をトリガーとしながらも何かの文脈に沿って解釈し別の何かを包含しながら多くの人に伝える機能である「ニュース」と、初めから何かを伝えるために取り組まれたフィクションである「小説」と「映画」という在り方だけであり、だからぼくはフィクションに孤独と潔さを感じるのかな、と思う。

2000万円

ぼくはお金自体についてはあまり興味がないのでお金を目的化しなくても良いようにがんばって仕事をする、というフォームがいまのところしっくり来ており、つまりお金の話を暮らし方や誰かとの関係性の要因に出来るだけしたくはないのだ。国が「老後いまの感じより2,000万円貯蓄がないと死ぬよ」といったニュアンスのことを言っている件、社会のあり方とかは別にして、いま受給している世代が「私たちは年金もあまりもらえないのでたいへん」と言っているのを聞きもらえない世代として割と素直に憤ってしまうことがすごく不穏な気がしており、この分断の推進がぼくの内面に何を誘発していくのだろうかと思う。今日はすごく蒸し暑い。

10:04

ベン・ラーナー 著、木原善彦 訳『10:04』を読む。“僕”が立たされる岐路で選択した先にありえる未来について。タイトルは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にてマーティーデロリアンで過去から現代に戻って来るときに雷が落ちて止まった時計台の時間から、だそう。

翌日、ベッドから起き出し、コーヒーを――閉じた傷口がまた開いたりしないようにアイスで――飲んだとき、彼は気付いた。僕は覚えている。タクシーのこと、あの風景、ライザの髪をなでたこと、言葉にされることのないまま消える運命にあるあの美しさを。僕は覚えている。それはつまり、あれが現実の出来事ではなかったということだ。(P.93)

私小説ともSFとも言えぬ、どちらかというとラテンアメリカ文学のような微熱と目眩を帯びた物語だと思うのだけど、ニューヨークで新しい小説の執筆に取り組む詩人の日常を描いているせいか都会的なトーンの中で小さな不安が付きまとう「いまの生活」が感じられてユニークだった。

10:04 (エクス・リブリス)

10:04 (エクス・リブリス)

少年が来る

ハン・ガン 著、井手俊作 訳『少年が来る』を読む。社会の大きなうねりの中で生まれる暴力の加害者、被害者といった役割を担うことになってしまった個人のその後の生、そのうねりの先にある今を生きる我々について。個人の魂が社会の文脈によってすり潰されないように、あくまで慎重に書かれた作品だと思った。

韓国が過去軍事政権にあり、その民主化の過程で軍と市民の大規模な衝突が起こっていたということを、ぼくはこの本を読むまで知らなかった。その象徴的な争いがこの本で語られる『光州事件』だそう。過去確かにあった出来事と、そこに生きた人たちのことを、ぼくは「今この時点の正義」と「今この時点の社会」を手元に置きながらも、目を曇らせずに想い/寄り添うことが出来るようにならなくてはいけない。

少年が来る (新しい韓国の文学)

少年が来る (新しい韓国の文学)

プリンセスメゾン

プリンセスメゾン』6巻を読む。生活の話。自分の手で紡いでいく自分自身の暮らしというのは、それ自体を自ら認識できれば出来るほど自由で豊かになり少し寂しく、だからこそはっきりとした輪郭を帯びてくる、ということを思い出す。最終巻寂しいな。

プリンセスメゾン (6) (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン (6) (ビッグコミックス)

熊本

熊本へ。前職で一度降り立ったことがあるのだが、その時はたしか街からずいぶん外れた場所での取材で、市街地は初めてなのだった。市電A系の路面電車を便利に使う。街の中心部にある停留所には屋根が付いているのだけど、ちょっと行くと道路の真ん中が小高くなっているだけで、そこが停留所。これ初プレイで乗車イベント発生させるの、けっこう難しくないですか。

熊本はもともと佐々成政が大名として治めていた地域だが、国衆による一揆により撤退。後任の加藤清正により豊臣秀吉の天下の元、熊本城が築城されたらしいと学んだ。申し訳ねえ、旦那衆はまったくご存知のことかと思うんですが、あっしは歴史をまったく知らぬゆえ、この程度の知識でも、どうも新鮮な逸話として響いてしまうんでさあ、へえ、へえ(ドストエフスキーのイメージでお読みください)。

山の勾配を利用した守りに適した広い敷地に多くの矢倉を立て、映える天守閣を設けた熊本城の敷地を歩く。佐々成政時代の出来事を踏まえ、戦にも有用な権威を誇示する『統治のための城』だったのではないかという印象を受けた。清正は朝鮮出兵などで城を空けることも多かったらしいが、民からはかなり愛されていたみたい。こうやって今に伝わる戦国武将の姿というのは、どのように形作られていくのかなと思う。江戸時代にエンタメとして消費されるために作られた物語による部分もあるのだろうか。

熊本市立熊本博物館が非常によかった。歴史と自然史の展示。リニューアルしたばかりらしく、きれいで、整理されていて、快適だった。加藤清正の後任である細川家が参勤交代の際に使っていたという船の展示が特に気に入った。「波奈之丸(なみなしまる)」という名前がかわいい。波があるのイヤだもんね。

先の震災で被害を受けた熊本城を再建するため、石垣に使われていた巨石を開けた場所に並べている様子を街のいろいろなところで見かけた。崩壊したものを解きほぐして元あった場所を確認し、また組み直していくプロセスが街のあちこちで物理的に行われていて、その営みを目にしながら《再生》という言葉を使うことについて考えている。

だらだら

達成感を得ることを目的としないが故に目標が達成できなくてもやる気を失うことなくむしろなんとなくずいぶん長い期間続く、みたいな状態を目指し結果として目標を達成するといったやり方に興味がある。今年はそうやってなにかをヌルッと始め、続けながら生きるシーンを増やそうと思った。好奇心、やりがい、結果が出る快感などに弱くそれらをエサとして目の前にぶら下げながら自走することが得意な方の人間であるし、小さな目標達成を繰り返すことで成長体験を積み重ね高みに至るやり方の有用性もわかるのだが、カロリー消費を極力抑え生活の質は大きく変えず5年くらいかけてだらだらと長い坂を登るようなやり方も、たぶん今ならまだ覚えられるような気がしている。

ここまでの話とはまったく関係がないが最近Spotify岡村靖幸を聞いている。節回しなのか、単語選びのセンスなのか、歌声がやたらとgroovyで楽しい。あと《SUPER GIRL》を聴くとシティーハンターを見たくなるなと思った。