気分は日記

あんまり調べずに書く、よくある感じの日記です。

19号

台風19号が来た。“地球史上最大級の規模”とややボジョレーのような煽り文句に素直に従い大人しく家に篭る。多摩川氾濫に伴い避難指示が出る。「安全な場所」とはどこなんだろうね、避難所である小学校の教室よりもマンションの4階でありキャンプ道具や食材の揃っている自宅のほうが「安全」な気がして残ったが、冠水してしまえば取り残されて安全ではなくなるだろうし。

ダムがいっぱいになってしまうので緊急放流をしてより大きな危険を避ける、というのも仕組みを考えると当然な作りなのだけど、あの緊迫感の中で伝えられるとショックが大きかった。放流した結果下流域では氾濫し人命を脅かすある程度の被害が出てしまうけれど、より大きな危険を避けるためにやむなしという判断をしなければならない事態って身近にあるんだなと思った。「大きな安全」のために「小さな危険」「大きくない犠牲」を選択しなければならないタイミングに立たされたときに、ぼくは判断できるのかな、とか。

「安全」の定義が自分の中になければ即座の判断も難しいのって生きることやっぱりハードル高いなと思った。近所の野良猫は台風の去った今朝、何匹か見かけたので大丈夫だったのかな。心配したぜ。台風が去ってから買いに行こ、と思っていたシングルバーナーで使える鉄板のおまけ付きBE-PALは既に売り切れていた。判断が甘い。

感じのするところ

お久しぶりですこんにちは。このところ何をしていたかと言うとダウントン・アビーテラスハウスにどハマりしてただただ液晶画面を眺める人となっている。どちらも回想やイメージシーンが一切なく、時系列に沿って起きたことがそのまま映し出されていくところが良かった。ダウントン・アビーを見ているときは脚本が良いんだろうなあと関心し、テラハについては人間の判断や行動原理っておもしろいなーと思うのだった。

目に見えていることをそのお話における事実としてひとまず受け止められるというのは、ちょっと癒しではないか、と思った。

ダウントン・アビーは最後まで見てしまったのでイギリス王室貴族っぽいものを見たいゾンビと化した結果、いまはザ・クラウンを見ています。テラスハウスは湘南編、軽沢編を見終えて新・旧東京編を見ているところ。茶割。

本が読めなくなって半年くらい経った。今までも急に読めなくなることはあって、そういうときは大抵映画とか音楽とか、別の好きなものを粛々と摂取しながら暮らしていく。今回はそれがドラマだった。ドラマはNetflixとかAmazonプライムに延々とあって、今もどんどん追加されていて、この時代の感じがわかってかつ目が悪くならないうちに見なければならないコンテンツという気がする。

思った

ニュースばかり見ていると「この深刻なニュースについてちょっと良い感じの独自意見を持ちたいな!」という気持ちになるメカニズムについてこの数ヶ月しみじみと実感できた。最近、やるかーと思い仕事を頑張っているのだが、頑張ると頑張った分だけ時間が限られて行き、ぼんやりとインプットできるのはちょっとした世間話であり朝のラジオから流れるニュースでありTwitterで話題になっている時事問題くらいで、その結果、考えることは俗世のことばかりなりなのだ。ところで、本を読み映画を見て何かを考えることと、ニュースを見て何かを考えることは、矢印が自分に向かっている限りでは基本的には大差がないような気がする。違うのは、事実をトリガーとしながらも何かの文脈に沿って解釈し別の何かを包含しながら多くの人に伝える機能である「ニュース」と、初めから何かを伝えるために取り組まれたフィクションである「小説」と「映画」という在り方だけであり、だからぼくはフィクションに孤独と潔さを感じるのかな、と思う。

2000万円

ぼくはお金自体についてはあまり興味がないのでお金を目的化しなくても良いようにがんばって仕事をする、というフォームがいまのところしっくり来ており、つまりお金の話を暮らし方や誰かとの関係性の要因に出来るだけしたくはないのだ。国が「老後いまの感じより2,000万円貯蓄がないと死ぬよ」といったニュアンスのことを言っている件、社会のあり方とかは別にして、いま受給している世代が「私たちは年金もあまりもらえないのでたいへん」と言っているのを聞きもらえない世代として割と素直に憤ってしまうことがすごく不穏な気がしており、この分断の推進がぼくの内面に何を誘発していくのだろうかと思う。今日はすごく蒸し暑い。

10:04

ベン・ラーナー 著、木原善彦 訳『10:04』を読む。“僕”が立たされる岐路で選択した先にありえる未来について。タイトルは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にてマーティーデロリアンで過去から現代に戻って来るときに雷が落ちて止まった時計台の時間から、だそう。

翌日、ベッドから起き出し、コーヒーを――閉じた傷口がまた開いたりしないようにアイスで――飲んだとき、彼は気付いた。僕は覚えている。タクシーのこと、あの風景、ライザの髪をなでたこと、言葉にされることのないまま消える運命にあるあの美しさを。僕は覚えている。それはつまり、あれが現実の出来事ではなかったということだ。(P.93)

私小説ともSFとも言えぬ、どちらかというとラテンアメリカ文学のような微熱と目眩を帯びた物語だと思うのだけど、ニューヨークで新しい小説の執筆に取り組む詩人の日常を描いているせいか都会的なトーンの中で小さな不安が付きまとう「いまの生活」が感じられてユニークだった。

10:04 (エクス・リブリス)

10:04 (エクス・リブリス)

少年が来る

ハン・ガン 著、井手俊作 訳『少年が来る』を読む。社会の大きなうねりの中で生まれる暴力の加害者、被害者といった役割を担うことになってしまった個人のその後の生、そのうねりの先にある今を生きる我々について。個人の魂が社会の文脈によってすり潰されないように、あくまで慎重に書かれた作品だと思った。

韓国が過去軍事政権にあり、その民主化の過程で軍と市民の大規模な衝突が起こっていたということを、ぼくはこの本を読むまで知らなかった。その象徴的な争いがこの本で語られる『光州事件』だそう。過去確かにあった出来事と、そこに生きた人たちのことを、ぼくは「今この時点の正義」と「今この時点の社会」を手元に置きながらも、目を曇らせずに想い/寄り添うことが出来るようにならなくてはいけない。

少年が来る (新しい韓国の文学)

少年が来る (新しい韓国の文学)

プリンセスメゾン

プリンセスメゾン』6巻を読む。生活の話。自分の手で紡いでいく自分自身の暮らしというのは、それ自体を自ら認識できれば出来るほど自由で豊かになり少し寂しく、だからこそはっきりとした輪郭を帯びてくる、ということを思い出す。最終巻寂しいな。

プリンセスメゾン (6) (ビッグコミックス)

プリンセスメゾン (6) (ビッグコミックス)